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2014年3月

ことばの違和感 2

パソコンの動作で、どうすればいいんだろうと
少々混乱してたのでさらにのろのろ。

無事に更新できることを祈りつつ・・・

∞∞

山田太一さんのお話の続きです。

言葉って、いろんなものを表すためにあるんだけど、
こういうことをいいたい、にはまりにくいこと、
ありませんか?

一般的とか平均的とかでみればそうなのかも、
そういうものなんだろう、と思っても、自分自身では
何か違うと感じる。
近年殊に、そうしたギャップのようなものがあって
書くときにためらいをおぼえることが増えています。



今は(意味が)近いんだけど適切でない言葉が
たくさん使われているのではないか



山田さんは続ける。



「友達」もそう。平和な時代だから通用しているが、
その人を見捨てるか見捨てないかという状況に
追い込まれたらどうか



人はどうしても物事を都合のいいように解釈して
しまうから、損得がベースにあると、いとも簡単に
関係を切ってしまいますよね。
それを考えると、言葉の意味するところと実状が
果たしてかみあっているんだろうかと。



どこか似合わないのに他に代わるものがないから
使われる、そんなちょっと遠い時代になったら
ガタガタ崩れてしまう言葉がいっぱい



その場かぎりの、やたら装飾がほどこされたような
ふわふわした、実感のともなわない言葉。
スピードが加速しすぎて逆に表面的なものに
振り回されてる感じです。

言葉そのものより、状況、発した(発する)人の
意図は、どのように感じているのか、何を伝えようと
しているのか・・・

それを読みとろうとするならば、瞬間的に言葉には
なりにくいし、安易に声を発せられない、
迂闊なこともいえないと思うのですが。


孤独、ということについても、
それっていけないことかな?という気もしています。

言葉のとらえかたとしてマイナスに思いすぎて
いませんか?

ひとりだから孤独なんじゃなくて、別に誰かと
いたくない人や、そういう時だって要るんじゃないで
しょうか。



孤独っていうのは・・・自分と何か強烈に通じ合う
相手を知ったうえで、そこから生じるもの、
一緒にいられないときのさみしさやせつなさが
もたらすものなのかもしれない・・・
だから、他者の存在が自身のなかで大きくなったときに
あらわれる現象じゃないかなって。


それがあってはじめて、人との適切な距離も
つかんでいけるようになるのでは。



言葉に対する感覚も、環境によってつくられていく
ところがあります。
同じ言葉でも、用いる人によって、発する人によって
意図することが異なってくることもある。

書くことが減って、微妙なニュアンスがメールだと
伝わりにくかったり、ブログなどで表現されることも
変わってきたりしています。
どのツールに普段接しているかでも違ってきそうです。




言葉ですべてを伝えられる訳じゃない、という
あたりまえのことが、最近ようやくわかりかけて
きました。

おまけに、ことばにすることのむつかしさ・・・

友達、という言葉にもどこか違和感があったから、
山田さんのお話で少しほっとした面もあって。
なんていえばいいのかわからない間柄、関係と
いうのもあるんじゃないか、そこまで定義できなくても
たしかに大切なものはあり。



物語を描く際にも体感というか、心身になじまない
ものだとうまくいかないこともあるのです。
たとえば科白、なんだけどやはりその世界その人の
ことばとしてどうなのか。

響きだけではいけないし、仰々しくてもだめ。


山田さんのことばからは離れてしまった気もしますが、
せっかくある言葉を、もっと大事にできればいいな、と
思います。


かなしみの感情、そのかたちにもさまざまなものが
あるから・・・それを、反応や情景によってあらわす
ように伝えることができたら・・・

∞∞

苦しみや痛みは、ほんとうの意味では
共有できないし分かち合えない。
だけど、そうした状態にあることを誰かが知る、
わかることは必要で、その存在があるだけで
何らかのちからになることはあります。

それらを言葉にしようとするとき、きれいなものに
仕立てたくなるものですが・・・実際は生々しさの
向こうにしか、真の美しさはないのかもしれませんね。

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手紙がいちばん気持ちを紡ぎやすいのですが、
このところなんだか以前にもまして、もうちょっと
どうにかならないかなあと感じてきています。

書くについて腑に落ちないのか、相手に対する
気持ちのありようか、それとも・・・

ひとつのよき変化、とみるべきなのかな??


伝えきれないことばかりだけれど、
私の紡ぐことばたちから何かを受け取って
もらえたら幸せです。


どうぞ、ほかならぬご自身のことを、
いたわってあげてください。




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みつめる・まなざし

きみの 生は

誰にもじゃまされない

たったひとつの 道



歴史を刻むのは

きみ 自身


物語を紡ぐ きみの手は

力尽きる日まで

生の おわりがやってくる

その瞬間まで

決して

止めてはならない




あす 何があるかは

いまは知りようが


ないのだから






きみよ

しあわせであれ




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ひとり だけど ふたり

人って 友達や知り合いが多くいると 安心するらしい

たしかに いないのも寂しいだろうし
そうした気持ちも分からない訳じゃない

ただ じぶんの子どもだったころを振り返ると
人がいうほど 誰かにいてほしい感覚は
なかった気がする


いなきゃいけないとは 思わなかったのかな

なんでだろ


人があたりまえにしていることが あたりまえじゃなく
どうしてそんなふうにいられるのか
誰かといることができるのか分からなくて
大人の視点なら 態度能力とか
コミュニケーション力とかいわれるんだろうけど
それってやっぱり素質なんかがいるのかなって

じぶんはこんなものなんだと思ってた 

決して投げやりだったのでもなく
それならそれでもいい とへんなところで
悟ってたのかもしれない


大人になってからも 基本姿勢は変わらない
昔とちょっと違うのは 
いなきゃいけないとは思わないけれど
じぶんのほうからも 働きかけをするようになった
ということ

もちろん 多く友達がいたり知り合いがいたり
することは良いことなんだろうとも思ってる

といって あんまり無理にそうなろうとしなくても
いいんじゃないかって


考え方もさまざまだから 数で勝負する人もいれば
中身重視な場合もある


わたしは性格的に エネルギーを多くのほうに
向けることがむつかしい
それならすこしずつ 何人かのなかで
ゆっくり関係を築いていくほうが落ち着く 
どこかで気がついてた


不思議なもので ちからが入りすぎなかったせいか
友達はいた いてくれた その時々で
いろんなつながりで

時間とともに 会えなくなったり 音信不通に
なってしまったり 別れが気まずくなったり
うまくいかなかったりもしたけれど
たいていは たぶん たのしいことも あった



友達
 知り合い というのは
体感として分けているのかな
とはいえ それが両方で一致するとはかぎらない

価値観みたいなものも 違うだろう

それによって とてつもない哀しみに覆われて
押しつぶされそうになることがあったとしても
心はどうなのか

いっしょにいると 嬉しいひと
笑顔になれるひと
そこにいなくても ふいに浮かんでしまうひとや
気持ちが向いてしまう
そんなひとがいないだろうか



一般論
 だったり 世間の反応だったりは問題じゃない

じぶんにとって 相手がどんな存在なのか
大事なのは それだけ

わたしにもともだちはいる
仮に 相手からみて そうだと感じられないとしても
定義らしきものにあてはまらないとしても
何より たいせつな


人はどう思うかしらない 
でも かかわりが密になればなるほど生易しいものでは
なくなっていくのは自然
だから 好きも嫌いも苦手も含んだところの
何って枠にはめられない
かけがえのない存在になってゆくのじゃないかな


外見 わたしはひとりであっても
いまは ひとりじゃないって感じてる
すでに わたしのスペースに存在するだれかが 
いつも見守っている
そう思えてしかたがないから







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