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2011年4月

れんげの花 ** 循環と廻天

月が替わるころ、そして季節は初夏へ向かいます。
みなさま、体調はいかがですか?

季節に反応するように、私も調子があっちこっち飛んで、制御しにくい状況になってます。
・・・せめてこちらに来られるかたには「ふー」と、もしくは「は~」と力を抜いていただこうと色彩効果もためしてみようか・・・なんて。
大地に根ざして、「土」を意図してみました。しかし、色がいっぱいあるので・・・
書いてみて発色はいい、かなあと。

春に生き物たちはいっせいに動きだしますよね。
子供のころのようにはいかないけど、虫だったりかえるだったり鳥だったり、そうした動きを感じるとすごく嬉しかったりします。

ぱっと目につくのは、木々の芽吹きとか、花のつぼみとか。
桜をごらんになったかたも多いかもしれません。

この時季、例年ほっとした気持ちになるのは、あるとき気付いたれんげの花々。
しばらく見てなかったんですね、この花。
土のある環境がなくなってきて、時々呼吸がしんどいと感じることが増えたから・・・田んぼの蓮華草を見つけたときはとてもびっくり、そうして幸せな気持ちになりました。

れんげ、というのは蓮の花に似ているとも言いますが、紫雲英とも書くようです。
雲のたなびくなかに咲く紫色の英(はな)、という意味らしい??
ちっちゃな仙人さんがいそうです。。。

それがあたりまえにあると思っていたころにはわからなかった。
自然の営み、命、循環。。。。
そばにあって、いつも教えてくれていたこと。
小さなたんぽぽやすみれといった身近なものたちはけなげに咲いていてくれたんです。
・・・そんなふうに、すべてはめぐっていく、・・・望みが絶たれたと思っても、空は変わらず光と闇を交互にもたらし時を動かして、廻天してゆく。

れんげの花を見るたびに、生きている・・・と実感することが多くなりました。
まだ何らかの役割を負っているのだろう・・・

「野に咲き乱れてこそ、れんげ草は、たまらないほど美しい。」

そう感じられるまでにたくさんの時間が必要だった
こころはまだ 大丈夫
いまはひかりすらわからないとしても
やがて何かがわかるときがくる

*本日の一冊 『366日 誕生花の本』 瀧井康勝 著 日本ヴォーグ社

あなたが元気になれますように ~楪 蒼朋

たかが愛

思う、という感情を最初に知るのは家族がきっかけだろうか?

愛される、大切にされる、そうした記憶をどのくらい有しているか・・・
人によってはそれが家族との記憶ではない場合もあるかもしれない。

友達、仲間、先生、先輩や後輩、何かしらの集団で出会う人々、
周囲にたくさんそうした人がいることが幸福をもたらすこともあるけれど、
そうじゃないことも、あるよね。

人は人のなかでしか生きられない。
かかわりかたはどうあれ、完全に切り離すことは、できない。
表層としてはうまくふるまっていても、しんどさを感じることも多いかな?

心を許せる相手というのは・・・そうやすやすと見つかるものではない、と
実感する。いや、自分がかなり不器用なせいもあるのだとしても。
人ってどうしても都合のいいことだけ受け取ろうとするからね、そうやってると深みのある、ながい付き合いができにくくなるし。
でも、心に残る人っていうのは、誰しも少なからず存在すると思う。

それがひろく発展するか、そこで途切れてしまうかはわからない。
別のところからつながることもあるだろうし、ちがう出会いが大きなものをはこんでくるかもしれないから、白か黒かじゃ決められないけれど。

家族であっても別の個人、だからわからないことだってある。
友達、仲間、それぞれの関係にいろんな思いがあって、みえないし伝わらないことも多いから歯がゆさを感じてしまう。
優しさや思いやりというのは、やわらかなかたちばかりではなく、厳しさや烈しさをともなうこともあり、示し方もいろいろ。自分に思いがあるように、相手には相手の思いがあって・・・
正しいかそうでないかじゃなく、背負ってるものや生きてきた環境が違えば、選ぶ言葉や態度にちがいがあるのは仕方ないんだよね。

「私はこう感じているけれど、向こうはそうじゃないのかもしれない。どんなふうに思ってる?どんなことを考えているんだろう」

思考というのは通常、自分中心にまわってしまうものだから、ちょっと距離置いて・・・
冷静でいられるといい。・・・あくまで理想。
そんなにできた人間じゃないからやっぱり悩んでます。
人とのかかわりって近いことばかりでなく、距離あっても生じること。
度合いがちがっても、愛情とか情愛とかのありようは実に色彩ゆたかに多岐にわたるものだと感じます。

たとえそれが一度きりのかかわりであるのだとしても、
人としてきちんと、そのときできるかぎりのことをして向き合いたい。

私自身、つめたい側面が出やすいかもしれない思いがあるからそうなのかもしれないけれど・・・何ていえばいいのか、どう表現したらいいのかしょっちゅう迷って、惑うんです。
だけど、時折この支柱を思いだす・・・昨年のコンサートで願いがかなった、中島みゆきさんの曲。生演奏は初めてだったのですごく嬉しくて。

・・・ひとつもまちがわない人なんていない・・・

人である以上、捨ててしまえないもの。
どこか突き放したような歌でもあるかもしれない、でも、
みゆきさんだから、あふれるものがたくさんある。

皆様、こころを、からだを、どうかいたわってください。
人への思いも、自分あってこそ・・・

手を、はなさずに

・・・震災から少したって、「手をとりあって」、という曲がよく聴かれる、流されるようになったと記事で読みました。・・・時々で必要とされる歌、音楽、言葉・・・どんなときでも生きようとする本能が求めるもの・・・
(曲のことはご存知のかたも多いかもしれません)

私も、いつしか『手』という存在が大きなものになっていることに気付いています。
だから、この記事を読んだときに、からだの奥からいろんなものがこみあげて・・・

直接的な言語ではいえない、はかりしれないものを物語に託すように、
それはまだ、安易だとしかられたり、揶揄されたりすることもあるだろうけど
永い時間をかけてようやくみえてきたものだから

何もせずにはいられなくて、私にはそれしかなくて


空を見上げてしばしじっとしていた海野はふいに。
「翔の手を離すなよ、武士」
小さくつぶやくと、静かに去っていった。

(中略)
「翔、手、出して」
「何だよ、いきなり・・・・・・」
「いいから」
その意図を、何となく察した翔はむくっと起きあがり、ぽりぽりと頭を搔いた後立ち上がった。
そして敷き布団をぴたり、とつける。
「これで文句ないだろ」
何か言いたげな武士に。
「ちゃんととなりにいてやっから安心して寝ろ!!」

武士は、狐につままれたような顔をしている。
「・・・・・・ったく、ケガ人がよけいな心配すんじゃねぇよ」
ぶつぶつ言いながら横になったかと思うと。
すでに翔は眠りについている。
自分の知らないところでたくさん傷ついて、それでも。

もう、ひとりで苦しまなくて、いいから。

『君はそれ以上~出逢い』 2009年文芸社・楪 蒼朋
“まだ見ぬ君に”

∞∞∞∞

何気ない日常がいつもある訳じゃないと知るとき
心に宿るものはあるだろうか
となりにあるはずのあたたかさ
それも永遠ではないかもしれないけれど
たとえ同一の苦しみを共有できなくても
すべてを理解できなくても
思い合うことで心を重ねてゆける

そう信じたい

祈るように。。。。

人間は耐えがたい苦痛や恐怖、衝撃を受けるとそのことを記憶から消し去る、もしくは自分のなかで書き換えを行って事実認識をあやまらせることがある、と聞いたことがあります。
それは、あまりにもショックが大きすぎるために「生きる」ことの防衛本能として働くものではないかと思います。

それと似た現象・・・
受け入れがたい現実が眼前にひろがっているとしたら、そのままだと生きてはいけない。
そんなとき、何かの支えがほしいと感じることはないでしょうか。

文章を書く仕事のようなものでなくても・・・書いていく、語っていくことによって少しずつ、気持ちの骨格のようなものができあがってゆくことは、誰にも起こりうることのように感じます。

同じ事例を何冊かの本から見た記憶があり、・・・とても切実な、痛い想いがはいりこんだのですが。
語られているのはお父さんの側からで、亡くなった20代の息子さんのお話です。
その息子さんはきっと、とても純粋なかたで、傷つきやすかったのではないかと感じました。・・・人としてあたりまえの感覚であるはずのものが、からかいの対象となりしだいに人のなかに入っていけなくなる・・・心を病んだ息子さんは自殺をはかり、11日間脳死状態の後亡くなるのです。
生前の日記のなかに、ある風景が書き記されていました。
「孤独な自分を励ますかのように」・「樹木」が「まだいるからね」と声を発する
・・・もちろん、実際に樹木が語りかけるわけではなく、けれど息子さんには「一人じゃないよ」と言ってくれているように感じられたのでしょう。この小さな物語によって自分を励まし、支えにしていた。
息子の想いを知り、父は・・・深い悲しみのなかで臓器移植のため、息子の腎臓を提供することになります。そのときの父が思い描いたこと、それは誰かに息子の「生命は間違いなく引き継がれたのだ」ということ。
現実では「死」であり、息子さんはもういない。けれど、命は引き継がれた、と「生」として置きかえている。そうすることによって、死を受け入れることができる。
これは、お父さんが必要とした物語です。

人はそれほど強くはありません。だから、助け合うことで乗り越えていかなくてはならないことも多い。・・・でも、ひとりひとりは別個の人間です。その人にしかわからない、誰も踏み込めない領域は必ずあります。故に、そこは自分自身で柱を立てるしかない。
そのときに物語の存在が浮かび上がってくるのです。

たとえば詩の一文が、音楽のフレーズが、やわらかな色合いが、風にそよぐ草花がかすかなよろこびを呼び覚ますかもしれない、大好きなひとの声や笑顔が涙といっしょにエネルギーを連れてくるかもしれない。

ひとりじゃ立てないよ、とたまらなくなったら手を差し出してみて
その手をちゃんと取れるように、差し伸べる手を
いつもタイミングが合っていなくても、何度でもくりかえし
そうして、人として生きてゆけるように

ささやかな想いをのせて 紡ぎ 織り続ける
いのちを 結んで つないで

いきるちから

声に出す、紙に書く、目で追う、指でなぞる、

手で文字に、かたちにしていく、細胞に、取り込んでいく、

何か伝えようとするけれど、この感覚をどういえば、こう、という言語、言葉が出てこない、

入ってくるのは文字だけではなく、映像だったり絵画だったり、もしくは音楽だったり、

・・・いずれにしても震災がもたらしたものに対して語ることが・・・どうすればいいだろうと途方に暮れ、立ち止まる。

自分自身にも震えがくる、揺れる、身体的なもの、精神的なもの、器(からだ)と魂(こころ)が離れてしまいそうになる、それを。
留めるために書くことが必要になる、何を書くか?

書物、新聞記事を手掛かりに・・・思うこと、考えること、感じること。
とある作家さんの言葉
「日本中にばくぜんとした不幸せ感がまん延している」
これは、震災以前の話。
・・・幸せに定義のようなものってある?
考え方しだいなのだろうけど、型にはまりたくない反面、どこか形のあるものを求める。
そうすると、多数派の原理、だったり華やかなモデルが気になる。

「もっと違った人生が・・・」

追い立てられるように、駆り立てられるように、そうして息切れを感じるようになる。
生きられる環境のはずなのに、自ら命を絶っていく人がいるのはその傾向と無縁ではない気がする。
でも、本当は・・・一人きりでかかえこんでしまわぬよう、「誰か」がいれば・・・

自身のことを考えたとき、そこにエネルギーがあれば気力もついてくるかもしれない。
これは被災したかたたちにもいえる。私もよく「考えるな」といわれた、時折、いわれる。
つまり考え始めると動きが止まってしまう、そのほうが次の一歩をためらわせる。
何も動きっぱなしが良いというのではない。できるかぎり、生活のなかの「ふつう」をなくさないこと。眠る、起きる、服をととのえる、見る、話す、聞く、食べる。

「とにかく生きる」

エネルギーが不足しているときには休むしかないこともある。それでも、人や事象、何かの刺激を受けることで体内の細胞が活発化してくる、そういうところから始めてもいい。

人間というのは自分が思っている以上に本能や五感が研ぎ澄まされてくるときがある。
最初はふわふわした感触があったとしても、時間を追って、どこかに意識が引っかかり、さわっている、地に足がつき、根をおろしていける。すぐには無理でも、・・・たとえば樹木を想像してほしい。記憶のなかに、そんな風景がないだろうか?
むろん、樹木とて、もとからその姿であったのではない。芽吹き、細々としたところから雨風にさらされ、嵐に遭い、雷にうたれる日々もありながらやがてしっかりと根をはり、大きな幹や太い枝を伸ばし、生い茂ったみどりをつくりだす。

人も、一輪の花であり、一本の樹であり、ひとつの星であると思う。
集まれば花の海となり、深い森となり、広大な宇宙となる。
すべてのはじまりは微小なものだけど、そこから多くの細胞で自らも形成されているのだから・・・時々、そのちからを借りることも必要かもしれない。


<追記>
募金情報
[日本赤十字社]
◎住友信託銀行 東京営業部(普)4150118
  口座名:日本赤十字社
*三井住友銀行 銀座支店(普)8047670
  口座名:日本赤十字社
*三菱東京UFJ銀行 東京公務部(普)0028706
  口座名:日本赤十字社
*ゆうちょ銀行 〇一九店(ゼロイチキュウ店)
  (当)0000507 金融機関コード 9900 店番 019

※基本は新聞からの情報ですが、検索により確認したものも含みます。
  詳細は、関係機関の最新情報をごらんください。

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