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どうか 生命の泉を消さないでください

あるとき私は活字が読めなくなった 身体的な異常は認められないはずなのに 視る・聴く・読む・書く・触るといった感覚が機能しなくなった 立っていることも座ってからだを起こしていることもままならず 自分に何が起きているのかわからなかった

物事が発生するときには複合要素がある だからそうした状態に至ったことにもさまざまな要因があった そこから回復してゆく過程もおそらく 薄紙をはぐような速度なのだろう

どちらが先だったか憶えていない ただ揺り返しも度々おとずれる恐怖のなかで かろうじて心身を保たせているもの それは私の場合「読み書き」である どちらにも「紙」が密接にかかわっている

たしかに便利や簡易であることは良いことかもしれない。
でも、そればかりが先行してしまうと大事なことが抜け落ちてしまう気がする。
五感というのは(プラス人智をこえた能力)厄介事もかかえつつ、形成され、あるいは派生するものではないだろうか。

私が憂慮していることは、紙の本がうしなわれてしまうことである。
自分自身が機械にうといことも関係しているが、心身に欠如が生じて以降さらに紙の本に対する思いが深まった。・・・なければ窒息しそうなのである。
世の常で少数のものは抹消される事例が多いが、人間はそうはいかない。
そして、たとえわずかであってもその「何か」がなければ命にかかわる、という事例は多数派に属する場合は気づかないだろうが実はそれほど少なくはないと思うのだ。

紙の本について私が語るのはたやすいことではないので、新聞記事から言葉をいただきたい。日経新聞にあった記事から。
「本は読めれば十分ともいえるが、それだけではない何かがある」
「持つときの感触、ページをめくるときの音、紙のにおい・・・・・・」
<画家の司修氏>
これについては同感である。・・・私自身はやはり、内容(中身)からも感じ取れる著者の気配のようなもの、でもあったりする。また、以前も書いたが一冊の本には職人の魂がこめられている。その「熱」のようなものを含めて人の「体温」が感じられるのは紙の本ならでは、という気持ちになる。

専科の脚本家・演出家といったものではないけれど、物語の作家という立場においてそういったものの見方のようなものは体現しているかもしれない。
不思議と原稿用紙やダイアリー、便せんほか紙の素材と接していると心が和らぐ。
意識などせぬまま自らの中心を探りあてていたということ、だろうか。

・・・話が得意だったなら、全部が伝えられていたとは思わない。明るい性格だけがうまくいくというのも違うだろう。昔であれば、そんなに何かを伝えたいとは考えなかった。
決してきれいな人間ではないし、闇に入りこんでしまうことも多いけれど、たわいないことでも何故か話したいひとがいつしか現れたから・・・たぶん、幸福を祈ることができるよう私は書くのかもしれない。

紙の本は私という大地に水を与えてくれる。
装丁家の菊地信義氏のような矜持のあるかたにはどう映るのかわからないが、私なりに紙の本に対する敬意は有している。無論、生きてきた環境・経験・年限や価値判断に隔たりはあるだろう。それでも、どんなに未熟であったとしても紙の本のなかで育ち、これからもそのなかで生きてゆくのだと思う、まして魂のない、意をのせることなくものを語り、紙の本へ託すことなど私には到底できない、ゆるされない。

さして人生経験豊かとはいえない立場ではあるが・・・
自己の内省が必要となったとき、真の意味で自身を愛せるきっかけができ、そのとき何かに、誰かに対する情愛が芽生えているのかもしれない。
そして、伝えたい想いから、再生がはじまってゆくと感じている。

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