ブログパーツリスト

  • presented by 地球の名言

« 2009年9月 | トップページ | 2009年11月 »

2009年10月

新・装幀談義

当初、別の本を予定していたのですが見てみると
「・・・こりゃ今の頭脳レベル(?)では無理があるかな・・・」
ということで。ひょいと視線を上げた先にあった本を手にしてみました。

「オモシロソウ」・・・レーダーに引っかかる(笑)

前にちょっと新聞のコラムの話をしたと思うんですが、本にかかわる者としては装幀のお仕事にも心が動くのであります。ちょうどコラム読んでたころ、探してみると自分の持ってる本にもそのお名前が。
・・・で、菊地信義さんのことを知りたいと思ったわけです。

この『新・装幀談義』(白水社)はたたずまいからして独特。視覚的にも「おや・・・?」となるし、感触がじわっときます。・・・手ざわりが、あたたかい。
もちろん、関心をもって見るのだからというのもありますが、どんなこと書かれてあるのかな?とわくわくしてきます。

読んでいてつくづく・・・職人技だ、と。
機械的・事務的な流れ作業のようではなく、細部に綿密に気持ちが注がれている。
それは膨大な資料から積み重ねられた知識・知恵・技量・技術などに裏打ちされているのだろう。
本の世界にふれたうえで、そこにふさわしい装いを思考する。
決して表層だけの問題ではないのだ。

私のように、文芸誌がらみで書いているのでもケータイ経由で書いているのでもなく、相応の業界で活躍して出版しているのではなくても、書く者としては嬉しい言葉がこの本には詰まっています。同時にそれは読み手としての姿勢にもかかってくることなんだけどね。

「読書」という形態もいろいろあっていい。少なくともまったく読まないよりは「読む」という意識があればずいぶん違ってくる。ただ・・・これはあくまでも自分の話ですが、私自身は紙の媒体がないと言葉として受け止めにくい・・・何か言語として入ってこないのです。おさまりがつかないというか、すとんと落ちてくれない。「読む」というより「見る」感覚なのかな。
心身のバランス欠いた状態から徐々に修復していく過程で、「書く」ことと「読む」ことで救われた部分が多いからよけいにそう感じるのかもしれません。

菊地さんも書かれていますが、一冊の本には多くの人の愛情がこめられている、と思うのです。
商業的に考えれば売れる・売れないの問題はあるけれど、売れさえすればそれでいいという考えが全面に出ているようなものはあまり作ってほしくない。・・・実質、本を生み出すことにはものすごいエネルギーが要る。「こんなんでいいや」になってしまうと読む人に対して失礼になりそうで。
・・・そう考えるとやはり、作り手のほうに愛情がないと話にならないという気がしてきます。

以前のようには動けなくなったけど、たまに本屋さんの空間にはいるとなんだか落ち着きます。そこでは本たちがひそやかに会話を交わしているようで。
時々こちらにもささやきが聴こえる。・・・そうしてまた、手にした本との間でおしゃべりがはじまる瞬間がたまらなく幸福に思えてくるのでした。

☆★☆★

なかなか本屋さんへ行けないのに読みたい本だけは増えていく。。。

いつもとちがった選定手法で「菊地信義さんが装幀を担当された本」として、一冊購入してみました。概要はつかんでからでしたが・・・めっぽう層が厚い(汗)

・・・大丈夫かー!?

幻なんかじゃない

目視できないもの、現実にはありえないものを幻と呼ぶ。

みえないものが幻なら、神さまや仏さまは?
さわれないのは“こころ”もおなじ

細密にしらべていけばある程度のことは科学で証明できるのかもしれない。
でも、それだけで結論づけできるほど容易じゃないのがあらゆる世界なのだと。

風ってつかまえられますか?
雪ってきえてしまうよね
知識ではあっても、それをどうやって「知る」ことになったかはっきり覚えていないこと、
多くありませんか?

人の気持ちって、コントロールできません。
じぶんの気持ちでさえわからないことがある、まして他者はまったく別の存在
あるのは表情や仕草、態度。それすら真実であるとはかぎらない。
みえているようでみえない、それこそ幻のように
だけど、とらえようとするし、なにかを“感じて”ますよね。

じぶんとまわり、世間は同一ではないから、さいごは自身の感覚を信じるしかない。
どこかで影響は多々受けていて、まっさらではないと感じたとしても、いまあるじぶんは誰かのコピーではないのです。

じぶんであってじぶんじゃない・・・
時々、奇妙な感触におそわれてたまらなくこわくなることがある、それでも
“生きて”いる、“呼吸して”いる、“感じて”いるのはわたしなのだと

なくなってしまったもの・・・
それをしらない人にとっては幻にちかいものだろうけど
そこにあった、存在してたことをしる人には“記憶”としてのこる

わたしの“想い”は人のいう恋とか愛とかじゃないかもしれない
そんなにかわいいものじゃないし、きれいなものでもない
たとえかたちがちがうのだとしても、いまのわたしにはたいせつな“たからもの”
あなたからのすてきな“おくりもの”
決して楽しいことばかりじゃないけど、哀しいばかりでもない、なみだもあるんだ

・・・そんなあたたかいなみだをしったころに出逢った、
荒木幸史さんのコスモスたちに再会できました。
コスモスの海で、さまざまな想いが押し寄せて・・・

みえない、さわれない、けれど
あなたはこの世界のどこかで
そして、わたしはここにいる、“想い”もたしかに


・・・そういえば、コスモス<cosmos>という言語には『秩序』の意味もあった・・・

★想★
石嶺聡子さん、だっただろうか。
彼女の曲に“幻なんかじゃない”ってあったようです。
とまどいながら、おそれを感じながら、しっかりと「ひとつこと」を貫く
・・・そんなひとでありたい。

赤えんぴつ

書籍や書物、といったものは教科書・参考書なども含めると・・・いろんな対し方があると思う。

ビジネス書であれ文芸書であれ気になるところにチェックを入れる人もいるだろう。
付せんをはる、マークする、線を引く・・・
こういったことは学生のときには必ずやっていた。しかし、あまりに線を引きすぎて何処がポイントなのか分からなくなった、という苦い経験も(汗)

最近はめったにしないのだが、先に仕入れた一冊の本は心してかからないと読み終えられない危険性(!?)が高いため、チェックを入れるかもしくは書き込みなども許可しながら取り組もうと思っている。・・・いや、単に自分が小心なだけなのだが(笑)

道具もなじむなじまないは人による。かなり長い期間、シャープペンシルになじめなかった。たしかに黒っぽくならないとか手が汚れにくい利点はある。でも、芯は折れてしまったり、終わり頃の小さくなったものは使い切れない。そのあたりは今も抵抗があったりするので・・・本質的には鉛筆が好きなのかもしれない。

殊に、赤えんぴつ、かな?

先生たちが現在どういった道具を用いているか分からないけど、テストの類の答え合わせなんかで赤えんぴつが使えると、なんとなく嬉しかったりしたものだ。
紙質にもよるけれど、わりと書き味が良いんだよね。

ちなみに校正の勉強をしてたころは必須でした。まあ、印刷技術や紙の性質なども変化しているから現場でどのくらい赤えんぴつやら鉛筆やらが使用されているか定かではないですが・・・「書く」作業自体減っているからちょっぴり複雑。

通常なら本の紹介したいとこなんですが、感想や意見もまとめにくいので今回パスです。
・・・けっこう厳しいんですよ。分かるけど、すいません、そんなに高度じゃないんで、としかいえない。賛成箇所もありますが。このかたにかかるとたいていの人間は読者として(筆者としても?)アウトのようです。でも、考えようによっては本に対する思いが強いともいえる。
勇気いりましたよ、購入するとき。ただ、本にたずさわる者としては知っておいたほうがいいと思った。本への思いという意味で氏がちらと推薦していた本を一冊あげておきます。

『書棚と平台』(弘文堂)

物事はさまざまな視点で見るとまったく違ったものにもなりますが、根底にあるものはじんわりとつながっているのかもしれません。できれば、そうであってほしい・・・

神経つかうので、いまのところ途中まで。
赤えんぴつを手にしてぐにゃぐにゃ思考してます。
合間に別の本(空気・空間)を入れながら・・・ようやく、読書ペース戻ってきたかな?

« 2009年9月 | トップページ | 2009年11月 »