« 2008年9月 | トップページ | 2008年11月 »

2008年10月

☆恒吉彩矢子さんと吉野奏美さん☆

昨今、出版形態もかわり、原稿募集をはじめる会社も増えているようですが・・・
依頼原稿が本になるのとは異なり、販売や流通に関してもそれほど甘くはないと思われます。
しかしながら、自分の書いたものが本になる、というのは感慨もひとしお。
それだけは、経験者としてはっきりいえます。

そもそも、私にとっては芸能界のように別世界のことだと思ってましたから

出版が実現したことで、本を通じたお話や交流ができるようになったのは人見知りがはげしい私には天地がひっくり返るくらいの驚きでした。
確実に行動範囲が広がった。・・・そのはじまりは、恒吉彩矢子さんでした。

新聞広告で恒吉さんの本を知った私はその後連絡をとり、本を寄贈させていただきました。これだけでもかなり勇気は要りましたが・・・なんと。
「・・・お会いできませんか?」
ふつうだったらやらないよ、これ??と自ら突っ込みを入れてしまうほど、とんでもない申し出をしまして。恒吉さんのお店におじゃましたのです。
メールとお手紙で少々やりとりをしていただけでしたが、恒吉さんは私の話に終始にこやかに応じてくださって・・・初対面なのにすごいなあ、と思ったのと素敵だなあ、とあらためて感じたことを記憶しています。

その恒吉さんがきっかけで知ったのが、吉野奏美さん。
お名前を拝見したときに私のアンテナが反応しまして(・・・妖怪アンテナと呼んでます・・・)
連絡をとりたい、との思いがようやくかない、本を贈りました。
ジャンルもちがうからとあきらめかけていたのですが・・・吉野さんから連絡をいただいたときにはすごくうれしかったです。ぜひ、お会いしたいですね☆

お二人は天使のように舞い降りました。
こんなに素敵なかたと言葉が交わせるなんて、以前の自分なら考えられなかったな

例によって「検索」のおすすめのみですが(ごめんなさい、PCいまこれが限界でして)、お二人ともサイトをお持ちですので関心もたれたかたはごらんください。

新刊『いい気分セラピー』および『お金に愛される魔法のレッスン』発売中です☆

詩物語 ∞心の声と魂の記録∞

本の選び方や読み方、また、好きな分野は人それぞれ。
作家さんで選ぶこともあるだろうし、徹底的にある分野のものを読破していく人もいるでしょう。
最近はよく、マニュアル的な本やノウハウ的な本を見かけますね。
とっかかりとしてはいいのかもしれませんが、私個人はあまり好きではないです。
なんとなく、「~べき」・「~でなければならない」といった強すぎる印象があって。

たしかに以前は本屋さんの目立つところに置かれている、関心のある分野の本を読むことが多かった。それはたぶん、精神状態が密接にからんでいたのだろうと。
ある種の強迫観念にとらわれてたんでしょうね、気持ちばかりが焦ってしまって。
そのために極度の恐怖症になり、何もかも手につかなくなって麻痺してしまいました。
・・・いまの状態になるまでにもずいぶんと時間をかけて。

前のようにいかないことに苛立つこともあるけれど、克服までなくとも緩和することはできる。それには活字を追うことが不可欠でした。うすい本、活字の大きなものから始めて少しずつジャンルや文字数を広げる・・・もちろん、苦しかったり挫折したりも。
ですがそれも、本だけの話でなく、日常何かに取り組むときの姿勢にも直結している気がします。

私自身はおそらく・・・博識というよりは雑学人間だと思ってます。国語は好きなのですが、古典の類を読んだのが早すぎたというか・・・一応、その時点で分かったような気になってましたが理解、というには遠かったかも。それはそれで財産にはなってるかな?
あらためて読みたいとも思いながら、日々読みたい分野が拡大していくもので。

近年のアプローチ法は、作家の人となりを知る、ということ。作品からだと多すぎてどこから入ったらいいかと悩んでいたときにふと思い至って。
読みかけのもの(長期戦覚悟・・・)もありながら唐突に購入してしまった一冊。
石川啄木と宮澤賢治について書かれた本です。
こうした評論も、いろんなかたが書かれるのでどれを選択するかで分かれるところですが・・・
ずっと前から気になっていたので「どんな人だろう?」という思いがわいて、直感的にぱっと手に取ったのでした。・・・内心、いつ読むんだと突っ込み、それでもわくわくしているという・・・

声なき『音』(こえ)が呼びかけたのかもしれないな

さて、私は旅の支度です。
演劇集団スプートニクの公演へ。。。

『ちょっと行ってきます、宇宙(そら)へ。』

シアターブラッツにて

平行世界 ≪すがたはなくとも≫

実用化が可能かどうかはともかく、理論上ではタイムスリップやタイムワープは可能ということらしい。それは、SFとして小説やまんが、映像世界でも取り上げられてきたことだ。

想像するということは楽しい。もしかしたら現実に?と思うこともあるかもしれない。
けれどそれは、ほんとうに幸福なものなのかどうか・・・ふと、そんな思いがよぎることもある。

もちろん、科学者や研究者は基本的に幸福を目指してそこにたずさわっているのだと思う。実際、その進歩がもたらした恩恵は、はかりしれないものだろう。
ただそこに、影を落とすことがあるのも事実。避けられないものもあるかもしれないが、肝心なことはそれをどのように用いるのかを常に問題意識をもって取り組むことにあるのだと。

子どものころは、そうした架空の物語に思いをはせて、夢を託した。
現実ではないからよかったのかもしれない。
でも、とてつもなくつらいこともあったけれど、たしかに冷めた眼差しを向けていたけれど、日常もそんなに悪くはなかった、ともいまなら思える。
大人だからとか子供だからとかじゃない、むしろ今のほうが何かしらの恐怖をかかえて生きていかなければならない気がしている。

無論、安易に昔がよかったということではない。
いまだからこそ、と思える素晴らしいこともある。
ずっと忘れていた、大切なことを思い出している、自分はずいぶん早い時期から非科学的なことに関心をもっていたということを。いわゆるパラレルワールドと呼ばれるものや、存在のはっきりしない不思議な現象につよく惹かれていたことを。

・・・あるとき突然、自身の存在に疑問をもった。
言語であらわすには難儀だが、それまでとは大きく何かがちがう、という感覚が支配するようになっていった。・・・考えるのではなく感じる・・・ここにいる「私」は何なのだ?

時が過ぎ、違和感らしきものは影を潜めてきているが、完全にはぬぐえず、唐突に襲ってくる。
この次元がすべてか?みえているものが真実か?もし、ここでない世界があったなら?
みえないアンテナがどこかでつながっていたら?

いつも思っていたわけではないけれど・・・心の底に眠っていた何かが“覚醒”したのは、あの瞬間だったかもしれない。
ウルトラシリーズがもたらしたもの、私にとっての結晶が『君はそれ以上~出会い』(新風舎)だったのだ。
自分のしらない世界があって、そこにどんなものたちが棲んでいるか、どこかで自分をみているものが別次元にいたなら・・・そんな想いから生まれた物語。

昭和・平成のウルトラシリーズを知る人も知らない人も、なかには一度は考えたことがあるのではないだろうか?
『ほかの世界で生きている別の自分がいたら』

この世には、科学で、数値で証明できないものがある。
それは言葉ですべてがあらわせないことに似ている。
「ない」と思うか「ある」と思うか
心も移ろいやすく、かたちをとどめず、さまざまに色をかえてゆくけれど望みをすてずに祈りを捧げたい、私をまもり、つつんでくれているすべてに

“誰が欠けてもいいということはない”

*恋色の日本語* それは言葉にならない想い

ブルーの基調に白い文字、そして。。。あかい、糸

表紙をみたときにどきっとしたのはどうしてだろう
でもその感覚はしだいに痛みにかわる

たしかめることもせず、本屋さんに電話を入れた
届くまで数日・・・予感がなかったわけじゃない

ほんのすこし前にひらいた
ていねいに、言葉のひとつひとつをなぞって
。。。泣いたことに気づかないくらいしらぬまに
とめようとしても止められなかった、かなしい、さびしい、
何なのかわからぬまま

恐さと、心地よさと
矛盾していると知りつつ
ずっとそんな想いをかかえている

わたしはいったい、何者なのだろう。。。。

『恋色の日本語』(PHP研究所)
敬愛する山下景子さんの最新刊です。
いつも素敵な言葉を教わりますが、こんなふうになるなんて・・・
どうかしてるのかな、私

楪 蒼朋

記憶 「創造」と「想起」の力

港千尋さんの本です。
はじめ、別の本を検索していたのですが、少し変わった視点の本のようだったのでこちらを読んでみました。

写真家、という認識でいましたが調べてみるといろんな評論もされていて。
その立場ならでは、ともいえるかもしれません。

ふつう『記憶』というと固定されたものと考えますが、この本を読んでいるうちにそんな生易しいものではないという意識に変わってきました。・・・まさに変貌をとげる、ものすごい働きのうえに『記憶』というものが構築(あるいは再構築)されている、と。

白い紙があるとします。・・・さて、そこに何かを描くとしたら、どうしますか?
たいていは描こうとするものを頭にイメージして、線を描いていくことと思います。
では、はっきりと描くものを決めなかったら?線ではなかったら描けませんか?
そうではないのです。たとえば、点の集合、しみ。・・・そこから浮かびあがるものもあるのです。見る人によって印象の変わる「だまし絵」のようなもの。
それもおそらくそれぞれの歩んできた人生の経験で大きく『記憶』が影響し、創りかえられていくのでしょう。

白地に黒、ではなく黒地に白抜き。
こうした反転や逆転の構造によってある種の思い込みから解放されることもある。
・・・だから『記憶』というものは侮ってはいけないのです。

実際に読まれたかたがどう感じるかは分かりませんし、私の言葉で伝えることにも限界がありますが・・・最近、新聞に寄稿してらした港千尋さんの言葉をうろ覚えですが解釈してみようと。
今は携帯でも簡単に写真が撮れる時代です。ビデオやカメラの性能もよくなり、気軽に誰もが撮影できます。これがフィルムを入れたり、ピントを合わせたりするのが必要であれば面倒でそれほど使うことはないでしょう。
楽しむために撮るのは良いと思います。でも、撮影対象にも当然のことながら配慮が必要です。撮影されるのをいやがる人もいれば、撮影が禁止されている場処もある。また、自分のことにかまけて周囲のことがみえなくなる撮影者もいます。
・・・危惧されていたのは、事件や事故の現場に居合わせて面白半分に撮影する人のこと。
カメラを向ける瞬間に考えてほしい、そのことをただの見物人のように眺めるのか、第三者に「何か」を本気で伝えるだけの覚悟をもって撮影にのぞむのか。

写真とは本来、『記憶』を補完し、記録として後生にのこし、伝えてゆくものだと考えられます。そのことで、あってはならないことを正したり、生きていくよすがとしたりするのだと。
撮影して、その瞬間で終わるものではないのです。
私自身は撮ることがうまくないのでめったにカメラはもたないのですが・・・
撮影にのぞむときはその重みを刻んで、手にしたいと思っています。
子どものころに初めて撮影した、あのときの純粋な想いを胸に

『感覚とはすでに記憶である』

ほのかに金木犀の香りがしています。
匂いから想起されるものも多くありますが・・・
あなたのなかには、どんな情景がひろがっていますか?

誕生石

アクセサリーをあまりつけるほうではない私は、石のことについてほとんど知りませんでした。
価格のこともありますが、どちらかといえば綺麗すぎないもの、・・・加工されすぎていないものが落ち着くかな?含有されてるもの、多少きずのあるもの、より天然にちかいというか・・・

石の波動とも関係ありそうですが、いまはアクアマリンを身につけているとほっとするようです。誕生石ではないのですが。。。

自分の生涯の課題となりそうな、もっとも必要と思われるのはローズクオーツですね。
調べてみると意外な縁がありました。ちょっぴり痛いけど、それも修練の一端かもしれません。・・・そういう時季がおとずれたということ。

あとは心身のバランスをとる、という意味で浄化のためにアメシスト
かなり強力な紫ですから、同様の紫系でも“炎”のイメージがあります。

最近はパワーストーンの本もたくさん出てますね。自然の生成物、贈り物ですからパワーはたしかにあるのだと思います。ただ、私は鉱石・鉱物って意識のほうが大きくて、どこか言葉がすとん、と入ってこないみたいで。
本もなかなかじっくり眺めたいなあと思うものに遭遇できずにいます。
・・・あまのじゃくだから??

そういえば、どこかの国では10月の誕生石がアクアマリンだった気がします。
記憶ちがいでなければ、ね。

月もかわってカレンダーをめくりました。
ことしはたまたま月ごとにお花がついているものなのですが、10月は竜胆(りんどう)です。・・・そうか、花言葉もいろいろですよね・・・本探しもしたい。

りんどうの花、好きなかたいらっしゃいますか?
私は大好きです。

« 2008年9月 | トップページ | 2008年11月 »