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物語から教わること

物語=ストーリー=おはなし、とくるとふつうはフィクションのほうを連想するのかもしれない。
ですが、虚構→つくりごとであっても、それを描くのは人です。

自分にないものを求めるか、照らして考えるかは自由
ただ、できるかぎり引き寄せて感じられたら素敵だな、と

近年、印象にのこっているいくつか

『王様のレストラン』という作品においては、強烈な人物たちが行き交う。
皆、職人のプライドが高いため、まとめていくのは至難の業、しかし、店であり、お客様がからむ以上、経営・運営していかなければならない。
そこに、一見頼りなげなオーナーと、伝説のギャルソン(・・・だったか?)
現実としてはどうなのか?と思うのだが、この素人オーナーがきわめてお人好し、はじめは誰も相手にしていなかったはずなのに、気づけばペースに巻き込まれている。
ちなみにオーナーは計算などなく、おそらく人徳なのだろう。無論、ギャルソンのさりげないフォローもあるのだが。
このように互いが感化しあうことにより自分の役目を次第に自覚し、できることを精いっぱいやることでバラバラにみえた人々が結束してゆく素晴らしさがこの作品にはあった。
作風としてはむしろ淡々と語られるにもかかわらず、じんわりと心に染みるのだ。

『もののけ姫』、これについてはどう話せば良いか・・・
宮崎監督作品は、特に好きというわけではない。作品は良いとは思う。
人ほどのめりこむ、ということではない、と解釈いただければと。
ただし、この作品は私のなかでは例外なほうだ。・・・衝撃を受けた。
何故なら映画館でこちら側から観ているはずが、いつの間にか物語の空間に入っているのだ。あたかもそこで、景色を目の当たりにするように、森に棲む生き物のように。
「生きる」ことについて彷徨いはじめた時期と合致していた。
そのためにリアルに迫り来るものがあったのだろう。

演劇集団キャラメルボックスの『太陽まであと一歩』。
生の舞台ゆえに記憶がうすれてきているけれど、他人事としてみることができず、ひどく痛々しかった感触がある。
夢に遊ぶ、というより日常そのものが夢であるひとがいたとしよう。
普通に考えれば迷惑きわまりないことである。でも、本人にとってそれが洒落や冗談ではなく、生きることに直結しているとしたら・・・?
私自身、小さいときから冷めた部分をイヤというほど自覚しているから、「目を覚ませよ!!」といった気持ちを否定はできない。だが、その反面、夢を抱き、追い続ける(ことのできる)存在がまぶしくてたまらない。
物語ではきょうだいの、そうした確執・葛藤のようなものが描かれていた気がする。
現実は見なくてはならない。けれど、現実とはなんだろうか?
見えているもののみが本当に現実なのだろうか・・・・・・

耐え難い出来事に遭遇したとき、人はしばしば逃避行動をとる。
逃げるといえばきこえがわるく、卑怯だとののしる人もいるかもしれない。
でもそれは、もしかすると生命維持のためには必要な作用なのではないかと思う。
立ち止まり、後退する術を物語によって客観視することで、人は再び歩いていくちからを得るのではないだろうか。

私は時折、詩によって激しく心を揺さぶられることがある。
これもひとつの“ものがたり”に違いないから

『人はかつて樹だった』 詩集

ことばを目にしたとき、つよく惹かれて、表紙にどきっとした

自分よりはるかに高い、大樹のそばで、ふれながら感じる
“ここには何があったの?どんな景色だったの?どのくらいの歳月ここにいるの?”
樹の想いを、知ることができたなら。。。

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