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2008年9月

恋 と 愛 の あいだ

うーん。。。

ほかのかた、や種別のちがう、ブログの場合はどうなのか分かりませんが・・・
悩むんですよ、私。

カテゴリーというものに(汗)

いえね、あったほうがいい部分もあります、たしかに。
でも私の感覚だと分けにくいんだよねえ・・・
(こんなんで悩む奴はいない??)

検索されるかた、すみません。
全然ちがうじゃん!とお思いのかたもいらっしゃるでしょう。
しかしながら、私の脳ではそうなるのです。たまに修正しますが。
お題目がちょっとでもかすめればカテゴリーに入れてしまう、ということも

ほとんど思いつきで分けているカテゴリー。
・・・雰囲気だけでも感じてもらえると良いのですが。

なかでも厄介なもの。
すでにお気づきのかたもあろうかと存じます、
「恋愛」というカテゴリー。
これについてはおおよそ世間一般に語られるものは書けないもので。
といって、これを別の言語に置き換えるのもややこしく・・・
考えてはみたんですがやめました。受け取り方も多様ですし。

『恋と愛のちがいって?』

この問いについても感じ方は異なるでしょう。

どれが恋で、どれが愛って線は引きにくい。
そこのなかにどれほどのおもいがあふれているか
いっぱい、だと思うわけです。
だからあらわしにくいんだな・・・・・・

たしか旧字体だと恋って文字は、言を糸と糸でつないだ心、という成り立ちじゃなかったっけ・・・?
そうした語源というかルーツというか、を知ると、深みがでるんじゃないかなと思います。

そういえば以前、友人にもらったまんがで面白い台詞がありました。

『恋と変は似ている』

・・・なかなか名言(迷言?)だと思いません?
字体のことじゃないんです、その現象のこと。

このまんまの言葉ではなかったかもしれないですが、恋をすると人はどこかに変化が生じる。大きい人もいれば小さい人も。
そしてふだんでは考えられないような行動に出たりもする、
つまりなんとなく変??・・・という状態。

いずれにしても、いつの世もミステリアスなもののようですね、
『恋』って魔物と“愛”って天使。。。。

さて、カテゴリーどうしよう!?(恐)

ボクの背中には羽根がある

部屋を、ときどき片づける。
・・・といっても、ほんのすこし、なにかを減らしてどれかをおさめるために。
ただこれだけでも、わたしにはずいぶんと心地好い。
昔は何もすてられなかったから

重い荷物はかかえこまず、少しずつおろしていけばいいよ
・・・そんな言葉を、本のなかにみつけたとき涙があふれた
あれからどのくらいの時間が過ぎたんだろう?

あのころはこんなきもちになれるなんて想いもしなかったのにな

いつ聴いたんだろう、この曲・・・
友人が好きだといっていた
たしかドラマの主題歌だったよね

CDには笑顔のイラストが描かれてる
ずっと見ることができず、忘れていた

ふるいともだちがいった、
人間は子どものとき、羽根をもってるって
それが大人になるにつれ汚れていくから、
だんだんみえなくなって消えてしまうと

じぶんの愚かさや醜さは嫌というほど知っている
でも、それだけじゃないこともわかっている、
聖人である必要はないのだから

羽根、とはたぶん、みんなもっているのだと思う、
ふだんは忘れてしまっているだけ

それは、信じるこころ
純粋な想い、とよばれるもの
どんなにつらいことがあっても、傷ついても、
癒し、休めることでふたたび飛び立てるちから

信じられなくてうずくまることもある
だけど、また歩きはじめる、そのくりかえし
・・・試練、なのだと

この曲を選んだとき、気づかなかったこと
わたしはいつかふれていた、その手でさわっていたんだ、
やわらかな、そうしてあたたかな幸福(しあわせ)に

ここを訪れるみなさん、読んでくださるかた、コメントをのこされるかた
それからひそかに応援してくださっているかたへ。。。。

ありがとう!!謝謝**

野球少年

・・・スポーツ?興味はあるけど、得意じゃないな。
けど、小さいころから野球が好きだった。
野球帽に憧れてさ。
そんときは気づかなかったけど、ひょっとしたら
野球選手になりたいとか思ってたかもね。

高校野球はいまも大好きだ。
昔ほどは見ていないけれど、ずっと続いてるって
すごいと思わない?

子どものときにわくわくしながら読んでたまんがのキャラクターたちは、おそらくプロ野球選手になって活躍してる。
自分のことじゃないが、そうしたこともなんだか嬉しくなってくるんだ。

まんがと、ちょっとだけ勉強(?)したおかげで野球は、競技内容やらルールやらはたいがい理解できる。
だから試合みてると面白いし、WBCのときなんかはすっごくエキサイトしてたっけ・・・

野球人、関係各位、そうでない多くの人たちにもきっとたくさんの夢を与えたひとが指揮官を退く。
直接的な関連などないけれど、ずっと大きなひとだった。
体調をこわされて痛々しいくらいだったから、どうかゆっくり休んでほしい。

王監督、本当におつかれさまでした。
そして、いままでありがとう・・・!!

いま此処にない命と

青と白をみていると、吸いこまれそうな
泣きだしたくなるようなきもちになるのはどうしてだろう

こわいの?それとも・・・

ささいな偶然が重なってく

誰しもいずれはこの世から消えてなくなる
なら何故生まれてくるのか?
そんな問いかけもしたくなる

いつ、そのときがやってくるのか
どのようになるのか
誰にもわからない
ただ、存在するものとしての生命を精いっぱい

死者を一冊の本のようだといった話をきいた
それは記されたものであろうとなかろうと
生きた証がのこされている、ということだろうと

姿はない、みることはできない
けれど想いがあれば対話は可能
それはどこか自己との会話に通じているかもしれない

わたしがそれを意識しはじめたのはいつだったろう?
じぶんがもしかしたら境界のはざまにいる、
ひとつまちがえば戻れない場処に立っている
・・・そう感じたときだったのか
そのころから涙がこぼれやすくなった
どうしてなのか、いまだによくわからないのだけど

ひょっとして、呼びかけるだれかがいる・・・?

つらくてたまらなくなったとき、声にだしてことばにできないとき
わたしは知らずここにいないものに問いかけていた
そうしていなければこわれてしまいそうだったから

『 ささやかなことが実は特別なことであると
  死者はよく知っている 』

事実、そうなのかもしれない
そのことを日々、痛切に感じている

月はみている

すべてに背を向けてしまいそうになるとき、
じぶんが此処にいられることに 想いをはせてみる

わたしのからだ、こころ、あたま
じぶんのものだけど、それだけじゃない
心臓がうごいて 脈打って 
血液がながれて 呼吸して
細胞はちっちゃなところで日々戦ってる
それらが機能してるから わたしは動ける

あたりまえのようになってくると
足元がおぼつかなくなってくることに気づかない
いつしか走ることだけが目的になって、
何処へいこうとしていたのか忘れてしまう

じぶんのことで精いっぱい、
それはよしとしよう
でも、じぶんさえよければあとは
どうなろうとかまわない、に移行してしまうのは危険
ひとりで成立するものはないから、必ず何らかの影響がおよぶ

信じることの本質ってなんだろう?
信じなければ傷つくことはない、だけど疑うことにつかうエネルギーって
疲れてしまわないだろうか
たしかに信じればうまくいくことばかりじゃないかもしれない
でも、疑いはその結果を生み出すことを、どこかで知っている
それなら「ない」と断じるより「ある」かもしれないと思ったら?
そのほうがよっぽど面白いとおもうんだ

だって、感情とか精神とかってみえないけど
「ある」ってみんなしってるよね
知識じゃなくって体感してるから

夢や希望っていうと途方もないもので、
軽んじる人もいるけどほんとはごくちかいものだと
このごろ感じてる
そのあたりはそれぞれだから、あえて言葉にはしない

ひとつだけわたしの想いをいえば
“生きている”、そのことがすでに夢であり希望

前をみるのも大切だけど、時には振り返ってみよう
そこにある花や雲、空はなにも言わない
同時に過ぎた時間も語ることはしないけれど、
歩いてきたあなたにだからみえるものもきっとあるはず

そうしてじっと、あなたを見守るまなざしにも
気づくときがおとずれるかもしれない

応えられないことはいっぱい、だけど
あなたがいるからがんばれる
ほんとうに、ほんとうにありがとう。。。

いつか何処かで~白い馬と青に融ける記憶

。。。その風景は何処でみたのか、ただの想像なのか。。。

理由や根拠は不明ながら、どうしてもそうせずにはいられない、という現象が時折起こる。
・・・これはいったい何なのだ!?

摩訶不思議である。

どうしてもタイミングが合わず、ある絵画展へ行くことができなかった。
『生誕100年 東山魁夷展』である。

しかしながら、何故いま、東山画伯なのか?(個人の主観)
そもそも画伯の絵を目にしたのがいつだったのか、起点がまったくわからないのだ。
すこしは心当たりがないわけではない、けれどそれがはじまりだったのかどうか・・・

記憶のなかの画伯の絵には、白い馬がいた。
のちに画集で、馬という存在は画伯にとって重要な位置を占めていたことを知る。
わたしがみた絵のなかの馬は、周囲の景色にとけこんでいるようにも、浮き出しているようにも感じられた。・・・神々しい、とはあのようなことを指すのだろうか。
何気なく通り過ぎたはずのものが、ある瞬間に突然、様相を変える。

そんなはずはない、と繰り返し問いかけてもそれは鮮やかにわたしのなかによみがえる。
呼吸さえもリアルに感じながら・・・
惹きつけられる、心を離れない、はっきりおぼえている自覚はないのに。

実際には知らぬはずのものがそうであると感じる、それが生じるのはもしかすると魂の宿した記憶のせいかもしれない。
東山画伯の絵をみつめているとそう思えてしかたがない。
どこまでもしずけさをたたえた世界なのである。
これがほんとうに、人の描いたものなのだろうか、と

じぶんのなかに、ひとつヒントを見いだした。
・・・『青』である。さまざまな色相を含むところの、青。

ぼんやりと感じていたけれど、わからずにいた。
すると、画集のみならずどこかで東山画伯の『青』について述べられていた。
そうなのだ、絵画に青みを帯びているもののイメージがたしかにあった。
(統計としては、そうした作品ばかりではないようなのだが)

青、ときいて想起するのはどんなことだろう?
空・海・山・森・林・草原・・・自然にまつわるもの、またはしずけさ、おだやかさ、ほのぐらさ、といったどちらかといえば精神性を象徴するもの。

それは実はひとりの人間のなかにすべて含まれる色ではないだろうか。
荘厳さと繊細さを内包する青という色彩。。。
だからこそ、深くかかわってくる

これまでは考えてもそこまでしなかった、だけど今度は。
そうしなければならない気がした、ささやきがきこえた。
申し込みをすれば発送していただけるというので(もちろん、有料ですが)、カタログの申し込みを・・・しました。
図録ですね、はい。さすがに解説文も多く、厚みが・・・・・・
表紙の山の連なりをみて、どきっとしました。

こんなに美しい風景が世界にはあるんだ。。。。

人生には光と影がある ☆★影絵展のご案内★☆

対極のもの、というのは多く存在するけれど、厳密にはきっと分けることはむずかしいでしょうね。
そのなかに広がる無数のもの・・・間にはいろんなものが秘められていると思うのです。

光は、それだけではどんなものかわかりません。
影があるから輝きや美しさを感じることができる。
そして輝きも度をこしてしまうとつかれてしまうことがある。
だから、静寂が求められるのです。

どちらが欠けていい、ということはない。

光と影に対する想いも、それぞれで異なっていることでしょう。

さて、藤城清治先生の作品展のお知らせです。

 藤城清治展 2008 光と影
 8月31日~10月24日
 銀座 教文館 9Fウエンライトホール
 10:30~19:30
 大人 800円 中学生以下 600円
 東京都中央区銀座4丁目5-1 TEL 03-3501-0003

開催中ですので、すでに行かれたかたもいらっしゃると思います。
こちらで把握している概要は上記の通りです。

関心のあるかたはぜひ。
空間に佇むだけでもおだやかなきもちになれるかもしれません。。。

*本日は雨です。。。まだどこか天候が安定していないようですね。
ウルトラシリーズ公開されてからおおまかなストーリーみましたが、子どものころっていったいどんな夢をもっていたんだろう?夢をかなえた人、かなえようとしている人、かなわなかったけれど幸せをつかんだ人・・・いろんな人がいるのでしょうね。
私はたぶん、夢のただなか、キャンパスに描いているところ。
。。。光は、みんながもっています。ただ、輝きの度合いや色彩(いろ)が異なるだけ。
ひとりの人間のなかにもいっぱい、次元の扉がかくれています。あとは、自分しだい。
風邪ひきさんがふえているもよう・・・気をつけましょう*

言葉のちから *あなたがいるから*

たまたま、言葉の恐ろしさを、人間の悪意を見せつけられる出来事が続いた。
ネットの危険性を指摘する意見もよく聞きますが、それをつくりだしたのは人間だし、
群集心理をあおる、ということはいまに始まったことじゃない。
うわさ・流言・情報操作・・・それらによっていとも簡単に人はあやつられてしまう。
それは人間だからこその側面かもしれないけれど。

匿名性、なりすましはネット上でなくとも起こり得ます。
そのことによって事件に発展することも・・・
でも、そうした人や組織ばかりではありません。
たしかに人にはマイナスの感情もあるけど、100%じゃない。
そうしてみんながつよい訳でもない。

有能だとか無能だとか、肩書とか名誉とか、それだけで人は生きてるわけじゃない。
ほんとうにギリギリの境界で、揺れ動きながら生きてる人は多いと思います。

あしたが来ないかもしれないと震えながら過ごした日々。
わたしには絵も描けないし、曲もつくれない、歌うこともできない。
楽しませる技芸があるのでもない。・・・ただ。
書くことで話すことはできる、そして話を聞くことはできる。
言葉を綴ることで応えることは、可能。

強烈にその行為に駆り立てられたのは五感がまともに
働かなくなったからでした。

身体的外傷はないのにからだが動かない、動いてもふつうの生活ができない、
見た目にはきっとわかりません。
わたしにも何が起きているのかいまだにわからないのです。

そのために投げつけられた言葉でわたしはどんどん追いつめられ、
すべてが信じられなくなっていきました。
幸い、わたしには心のよりどころがあった、
・・・そのときは気づきもしなかったのですが。

言葉が全部、悪意にみちているとはかぎらない、励ましや助言、忠告のつもりで
話すこともあるでしょう。でも、それすら苦痛になる、傷つく人、または場合もあります。

わたしはじぶんから話しかける、というのが苦手なのでとっつきにくいと
思われているかもしれません。以前はその性分が恨めしかった。
五感がおかしくなってから気づいたのですが・・・言葉、というのは書き言葉、
または音声によるものだけではない、と
聴こえない声(おと)、すなわちあえて言葉として発さない沈黙や余白も含まれる

じぶんを想ってくれる、見つめてくれる気配だけでほっとする瞬間って
ありませんか?
表情や仕草にあたたかさを感じることはないですか?

あなたというひとが発する言葉だから素直にきける、ということも
あると思うのです。
つまりは、あなたの存在が言葉そのもの。

自信ってなかなかもてなくて、しかられたこともあります、・・・もちろん、
ある意味の愛情で。
そうして、友人や先輩がそばにいてくれるのは、わたしのことを
ちゃんと見ていてくれるから。
“そんなに小さくならなくっていいよ、わたしはわたしのまんまでいいんだよ”

欠点だらけで危なっかしくて未熟だけど、ネットや本を通じて知り合ったかたもたくさんだし、お会いできたかたもいます。これからできるかぎり逢いたい!と念じてるかたもいっぱい。
だから、言葉のもつ可能性をせばめたくない。
わたしの声を伝えるために、あなたの声に周波数をあわせるために、
言葉を紡いでいきたい。

あなたの宇宙(そら)に届くように。。。。

物語から教わること ∞Ⅱ∞

小さいころはピアノのお稽古や音楽教室があったので、リアルタイムではなかったですが、アニメは観てました。まんがもそうだったけど、どちらかといえば少年まんがを面白がってたかな?それと、特撮もの。

*一応、説明*お稽古ごとを目的として通ったというより、神経質でからだをこわしやすかったのできたえるためもあって、習い事をということになったらしい。
あとはたぶん、情緒面?友達とやりとりするのがうまくなかったからね

私が観ていたころには当然「イケメン」なるコトバはなく、それほどヒーローであるとも強調されてなかった。どっちかといえば時代劇のノリに近かったかな。
だから、このごろの特撮ものの取り上げ方にはちょっぴり違和感ある世代です(笑)
注目されるのはいいことだけどね。

特撮といえば、円谷英二さん→円谷プロ→ウルトラマンという構図になる私。
まあ、きょうだいの影響も受けつつ育ったので。
ゴジラも好きでした。シリーズによって、救う側になったり、倒される側になったり。
なんだか人間社会を象徴してるような・・・そもそも、生み出したのが人間だから、
言い方変ですが怪獣だけどすごく人間くさい、というか

断片的な記憶しかないのだけど、どこかウルトラマンといっしょに育ってきたという意識もあって。
新しいシリーズがはじまったときには社会人になってましたが、不思議なくらい身近に感じたことを記憶しています。

ご存じのかたはわかると思いますが、ウルトラマン自体の表情というのは見えません。
けれど、ウルトラマンのもつ“何か”や変身している人の思いによって明らかにちがうのです。人も、表情だけではすべてはわかりません。それとおなじで、ささいなことからみえてくるものもきっとあるんだと。

おそらく、去年も似たようなことを書いたかもしれません。
ウルトラマンの物語は決して絵空事ではないと。
環境や設定はたしかに現実ではない、でも、形をかえて置き換えてみることは可能です。
虚構だと思って観れば、ただの虚構にしかすぎません。
・・・ですがもし、争いが起きて武器を持てといわれたら?大切なひとが危険に巻き込まれたら?自身に恐ろしいことがふりかかったら?
実際にそうなってみて、わかるしかないこともあります。だけど、未然に防ぐことの出来る危機もあるかもしれない。助けをもとめることで乗り越えられる困難もあるのです。

そのころ、それまでにない危機にみまわれていた私には、物語はいつも突き刺さっていた、すさまじい痛みをもたらした。これはいまだからいえるのですが、ある種の傷が治癒してゆく過程で極度に状態が悪くなることがある、と聞いたことがあります。どれでもあてはまる訳ではないでしょうが、そういうこともあるのかな、と

子どもやマニアックな人の特権のようなところもあるウルトラシリーズですが、劇場版最新作がまもなく公開されます。
制作者サイドでもFC所属でもない通りすがりの地球人ですが(そのはず・・・)いろんなかたに観ていただけたらな、と記事にしました。

姿はみえなくても彼らはずっと生きてる。。。。

あしたが必ずおとずれるとはかぎらなくてもいま、このときを
日々をていねいに生きてゆくことの大切さをかみしめています。

スタッフ、演者のみなさん、お元気ですか?

『 ひとりで生きているのではなく、だれかに支えられ、そしてきみも
  だれかを支えている だからひとのことを考えるのは良いことだけど、
  じぶんをいつわっちゃいけないよ 』

*楪 蒼朋*

物語から教わること

物語=ストーリー=おはなし、とくるとふつうはフィクションのほうを連想するのかもしれない。
ですが、虚構→つくりごとであっても、それを描くのは人です。

自分にないものを求めるか、照らして考えるかは自由
ただ、できるかぎり引き寄せて感じられたら素敵だな、と

近年、印象にのこっているいくつか

『王様のレストラン』という作品においては、強烈な人物たちが行き交う。
皆、職人のプライドが高いため、まとめていくのは至難の業、しかし、店であり、お客様がからむ以上、経営・運営していかなければならない。
そこに、一見頼りなげなオーナーと、伝説のギャルソン(・・・だったか?)
現実としてはどうなのか?と思うのだが、この素人オーナーがきわめてお人好し、はじめは誰も相手にしていなかったはずなのに、気づけばペースに巻き込まれている。
ちなみにオーナーは計算などなく、おそらく人徳なのだろう。無論、ギャルソンのさりげないフォローもあるのだが。
このように互いが感化しあうことにより自分の役目を次第に自覚し、できることを精いっぱいやることでバラバラにみえた人々が結束してゆく素晴らしさがこの作品にはあった。
作風としてはむしろ淡々と語られるにもかかわらず、じんわりと心に染みるのだ。

『もののけ姫』、これについてはどう話せば良いか・・・
宮崎監督作品は、特に好きというわけではない。作品は良いとは思う。
人ほどのめりこむ、ということではない、と解釈いただければと。
ただし、この作品は私のなかでは例外なほうだ。・・・衝撃を受けた。
何故なら映画館でこちら側から観ているはずが、いつの間にか物語の空間に入っているのだ。あたかもそこで、景色を目の当たりにするように、森に棲む生き物のように。
「生きる」ことについて彷徨いはじめた時期と合致していた。
そのためにリアルに迫り来るものがあったのだろう。

演劇集団キャラメルボックスの『太陽まであと一歩』。
生の舞台ゆえに記憶がうすれてきているけれど、他人事としてみることができず、ひどく痛々しかった感触がある。
夢に遊ぶ、というより日常そのものが夢であるひとがいたとしよう。
普通に考えれば迷惑きわまりないことである。でも、本人にとってそれが洒落や冗談ではなく、生きることに直結しているとしたら・・・?
私自身、小さいときから冷めた部分をイヤというほど自覚しているから、「目を覚ませよ!!」といった気持ちを否定はできない。だが、その反面、夢を抱き、追い続ける(ことのできる)存在がまぶしくてたまらない。
物語ではきょうだいの、そうした確執・葛藤のようなものが描かれていた気がする。
現実は見なくてはならない。けれど、現実とはなんだろうか?
見えているもののみが本当に現実なのだろうか・・・・・・

耐え難い出来事に遭遇したとき、人はしばしば逃避行動をとる。
逃げるといえばきこえがわるく、卑怯だとののしる人もいるかもしれない。
でもそれは、もしかすると生命維持のためには必要な作用なのではないかと思う。
立ち止まり、後退する術を物語によって客観視することで、人は再び歩いていくちからを得るのではないだろうか。

私は時折、詩によって激しく心を揺さぶられることがある。
これもひとつの“ものがたり”に違いないから

『人はかつて樹だった』 詩集

ことばを目にしたとき、つよく惹かれて、表紙にどきっとした

自分よりはるかに高い、大樹のそばで、ふれながら感じる
“ここには何があったの?どんな景色だったの?どのくらいの歳月ここにいるの?”
樹の想いを、知ることができたなら。。。

金魚*ちょっぴり、おまもり?

メカにうとい人間が何故ここにいるのだ??・・・いまもって不可解ですが(笑)

ブログのしくみも実はよくわからないまま、「え?えっ??ええ!?」ってな感じ
・・・なのでよたよた。みなさん、みえてんでしょーか??
ページの左すみのほうに、動く生き物を置いてみました。
金魚です。なんだか可愛くって**

のたからもの』という物語を綴ったのは入院してる(八年くらい前かな)ときだったけど、原稿まとめてちっちゃな見出しつけようと想ったんだよね。正確にはちがうのかもしれないけれど。
ちょうど夏のおはなしだったんで、浮かんだんだと。・・・金魚。
直接的ではないけどね、雰囲気があったんだ。

縁日なんかの金魚すくいは得意ですか?
私、全然ダメ(汗)・・・コツみたいなの、あるらしいですね。
でも、もらって帰っても育てられない・・・あのころ、生き物がいのちをなくすと塊になってしまうんだ、と漠然と感じた気がします。
そのことも思い出したのかな

何年か前に、『ビッグ・フィッシュ』って映画があったの、ご存じですか?
映画館で観たのです。おとぎ話といってしまえばそれまでだけど、現実にその状況に直面したら受け入れられるかわからないけれど・・・私は~きっと、昔ならばかばかしいと思っただろう~それがただのおとぎ話には思えなかった、というよりそんな場処が、人々が存在してほしいと感じてた。観ていないかたにはごめんなさい、ですがどうしてだか、そのとき私、泣いたんです、どうすることもできなくて
。。。そんなふうにだれかを愛せたら、いっしょに歳月を重ねてゆけたら。。。

水族館にはなかなか行けないので、つい金魚に、もしくは金魚に関するものに
視線が向いてしまいます。気づけば手帖やらハンカチやら小物が金魚だらけ・・・?
いえ、あつめてるわけじゃないんですよ、はい。
ただ、気になることはたしかなようで・・・だから置いてみたんですが。

いかがなもんでしょう??
暑気ばらいには涼しそうだし、水がらみなんでぼ~っとしたいときにもちょうど
・・・うん。私には、ほんわかモード。
よかったらごいっしょに、ふにゃっとしましょう*

あれ?何話そうとしてたんだっけ・・・・・・

せつなさとうれしさ

心身に故障が生じてから、疲れやすくなった。
ふだんはそんなに顔をださないのだけど、極度に緊張したときやきもちが
高鳴っているとき(推定)、息がしづらいと感じることがある。

でも、それはしんどくてもどこかに心地よさや安堵感がある、
・・・じぶんにもよくわからなくて不思議だけどね。

以前はあたりまえにできてたことができない、もしくはやりづらくなったとも思う。
ただ、いまは鼓動もちゃんときこえるし、動ける、こころも揺れる。
そのことがしあわせだな、と

じぶんのからだがどうなってしまうか恐ろしかったころを
『絶望』と呼ぶのは安易かもしれないけれど、あれを通らなかったら
わたしはこうしていられなかっただろう。
だから、やるせなさもおぼえつつすきなひとにあいにいく。

矛盾だらけだな、と思いながらしあわせを感じるじぶんも
意識するしないにかかわらずわたしにしあわせをくれるひとも
いいもんだなあって。

月がかわります。
学生さんは新学期かな?
あたらしい一歩を踏み出すひともいるでしょう。

懸命に生きるひとを応援したい、
そしてわたしも、そうありたい。

すこしずつ、がんばります。

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